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松区は古く松葉区と言われていました。松葉は、マチバ(町場)から転化したという説がある。硯川の東のたもとで現在の防火帯ビルの所に花柳会の芸姑の置き屋があり、彼女らが出入りしたり太鼓や三味線の音がいつもしていて町場の雰囲気を醸し出していたということからだった。

松区は大正末〜昭和初期までは、三谷温泉下から国道23号線をはさんで南北2帯ある防火建築の東淵までうっそうとした松林の海岸線が続いていた。海岸線は白い砂浜が続くばかりで、およそ荷揚げの造られるような適地では無かった。松林には、別荘があちらこちらに建ち並び、海には竹の海苔ソダが植わっていた。
・昭和24年 囃子堂完成。
・昭和45年 三谷青年、解散
・昭和47年 三谷祭保存会が創立される。
・昭和48年 少年くぐり太鼓が創立される。
・昭和49年 少年囃子が創立される。

氏神  八劔神社
山車  神輿(八劔宮本社、源太夫社)
練り  くぐり太鼓、事触れ、山伏
備考
 三谷祭りにおいて神事を司る
お神輿飾りが終了後、八劔神社内の批幟をたて御霊移しの儀が行れ、後に松葉の浜幟が立ち、合図として10時40分の号砲が鳴らされる。
浜幟が立つと、二日間にわたる三谷祭が始まります。(昔は松区の幟が立つのを見て各区の幟が立っていた。)
宮入は、宮元の松区(東の宮では東区)が御門口を開いて(二の鳥居の注連縄を解いて)東区を初めとする行列を宮に入れる事でその宮の開始を知らせる大事な行事である。
神幸祭の東の宮において、お道具、お肴、両神輿が定位置に着くまでの間外庭では、立傘と台傘を交叉させて拝殿の鳥居で禰宜止めが行われる。
禰宜止めが解除されると、いよいよ三谷祭の神幸の儀式が行われます。
踊りと言わずくぐり太鼓と言っているのは親が二人の子の間を潜るような所作で踊る場面があることによる。他の伝承では親が子を育てる、しつけるという意味をもつとも言われてます。歌詞もお囃子もなく、三つ巴文様をあしらった親太鼓と子太鼓2人の計3人が太鼓を叩きながら踊る。素朴かつ単調なリズムで、一見地味に見えるが力強さと重厚さがあり、年代の古さを感じさせる。
祭文は津島牛頭天王信仰の色濃い修験道的要素を多分ににじませた内容である。
祭文の祝詞は、恵比寿三郎なる禰宜が七福神のうちの大黒天、毘沙門天布袋、福禄寿の4人と、村の繁栄と幸せをことほぐ内容である。
事触れが最も古いという伝承も残されています。
天狗は猿田彦を表します。従って本来は神輿の先祓い、警固としての役割を持ちます。
天狗は事触れが祭文を読み始める段階で登場し、次の山伏まで周りを観客に睨みを利かせながら回っています。山伏しの最後の祭文で観客一人の頭を叩きます。これは厄除けとされています。
毎年7月の第3日曜日に行われる。
午後1時の式典に始まり、区民の安全と繁栄のご祈祷、厄年及び還暦の人達(正月祭で行うときもある)のご祈祷と続く。少年くぐり太鼓の5年生がこの日に初めて人の前で踊りを披露するために保存会長より免許皆伝の証を授けられる。保存会が創設されてからは、例年は弥生公園で手筒及び乱玉花火の奉納、5年ごとには周年事業として浜に出て金魚花火他多彩な催しが行われてきましたが、平成10年より毎年、浜で手筒、乱玉、ナイヤガラ、金魚及び打ち上げ花火など多彩な催しが行われるようになった
陸での手筒花火から始まり、海の部に移り最後はスターマインで終了。一連の流れを重視し、陸では毎年マンネリ化しないような煙火花火を心がけている。
海の部では、65mのナイアガラと水上花火が優艶な風合いをかもしている。